蒐集の弁


 本当は「弁」即ち弁明、弁解などということは望ましいことではない。ホ

イットマンの詩にもあったが、太陽は自分の光りを放つのに一々弁解などし

ておらぬ。光る時が来ればいつか光るので、雲や雨のことなど一々咎めはし

ない。

 併し方便としてみると、「弁」もそれなりに一つの存在価値があろう。特

に真理が覆されて、中々世間が認めぬような場合は、解明は有益な一役を演

じる。プラトンの編に「アポロギア」というのがあるが、法廷でなしたソク

ラテスの弁明を記録したものである。今からみるとやはり記しておいて貰っ

てよかったと思う。そこから尊い色々な真理を今も貰える。

 私は過日或人から、「君は余り物を持ち過ぎるではないか」と云われた。

数が既に多いのに、尚も慾を出し過ぎるという意味なのか。それともよい品

をそんなに多く独占する必要はあるまいというのか。金もないくせにこれ以

上買うのは愚かだという意見なのか。それとも蒐集は数の蒐集たるべきでは

ないと警告してくれているのか。又一層ここらで蒐集を打ち切って、もっと

他のよい仕事をしろと云ってくれているのか。どういう理由だったか、惜し

いことに聞き洩らして了った。

 考えると私も随分物を買った方である。世の中には私の場合などより、桁

違いに多い人もあろうが、ともかく私の蒐集も少ない方とは云えぬ。殆ど手

離す場合がなかったから、たまる一方で、若し民芸館のような陳列所がなかっ

たら、物の中でうづくまって暮らさなければならぬかも知れぬ。家庭で使う

食器でさえ、もう種類や数が多過ぎて、既に買う必要がなく、仕舞う場所に

さえこまっている始末なのである。お客でもしたら毎日食器を変えても、一ヶ

月分ぐらいはあるかも知れぬ。だから「物を持ち過ぎる」と云われても、当

たっていないわけではない。実際身分不相応に物を持っている方だから、弁

解のしようがないように思われる。時々自身でもよくもこんなに集めたもの

だと思うことがある。

 尤も私は蒐集品の全部を民芸館に寄贈したし、今家庭で使っているものも、

値打のあるものは凡て、将来館に寄贈するつもりだから、実際には私が持主

なわけではなく、自分のものは寧ろ僅かよりないのである。併しそういう意

味で「少しより持っていないのだ」と弁明しようとするのではない。更に大

いに買いたいのだし、持ちたいのだし、物さえ出れば今も折を逃さぬ性だか

ら、「まだ買うのか」と云われても、「持ち過ぎる」と云われても、強ち不

当な評言だとは思われぬ。併し一面では大いに不服なのである。充分私の買

い方を知っての批評だとは思われぬ。それで「蒐集の弁」を一応は書き残す

こととしたい。これで私の蒐集の意味や、終わりなく買う意味を理解して貰

えるかと思う。又これで蒐集そのものの本義にも触れて貰えるかと思う。

 なるほど私は折さえあれば今も買うから、結果としては沢山持ち、必要以

上に持ち、従って更に殖やせば当然持ち過ぎるとも云えるが、私としてみれ

ば買うのは沢山数を殖やす興味からではないのである。尤も民芸館のことを

考えると、一つでも余計に殖やしておけば、後に来る人にはきっと役に立つ

に違いないから、数が殖えることにも大いに意味はあるのである。又民芸館

としては数多く持つことが、館の内容や価値を益々増やさしめる所以ともな

ろう。だから持ち過ぎるという制止は、館に対しては成り立つまい。併し私

がここで弁じようとするのは、そんなこととは全く違う点であって、私の買

い方、持ち方そのものに就いてである。

 少し言葉は変だが、私が物を買うには、一生に「今この一個」をのみ買っ

ているという行為の連続に過ぎないのである。だから横に買っているのでは

なく、いつも縦に買っているのだとでも云おうか。買うということの単なる

繰返しではなく、禅語を借りれば「前後截断」で、過去からも未来からも解

放されている「現在」でのみ買っている行為なのである。禅僧がよく「這裏」

とか「箇裏」とか「箇中」とかいうが面白い表現で、「現下のこのもの」と

という意味である。買うとか持つとかいうことは私には、いつも「今」「こ

の一つ」という境地での出来事に過ぎない。数多くを買うというような意味

での買い方ではない。事実物の数が多くなっているのだから、それは詭弁だ

という人があるかも知れぬが、そうではない。実は物を持つとは、全一に持

つという意味がなければならぬ。その全一とは数多い物の中の一つではなく、

一つそれ自身の一つなのだ。このことは、一寸分かりにくいかも知れぬが、

真に美しいものは、只色々あるものの一つではなく、左右のない現下の一つ

なのだ。それは数の世界にあるよりも、数なき一つなのだ。仮にそれを多数

の中の一個としてより持たないなら、美しさを見届けての持ち方とは云えぬ。

私は量の世界で買っているのではないのである。

 先日新聞を見ていたら、蒐集家話が出ていて、一人は徳利ばかり集め、一

人は制札ばかり集めている例が挙げてあった。そういう蒐集こそ何より数が

ものを云うが、私はそういう性質の蒐集には、てんで興味がないのである。

それは蒐集としても畢竟二義的な性質を出ないものである。なぜなら数量が

大きな目的で、つまらぬものでも徳利とか制札とかなら何でも集めるという

ことになってくる。謂わば横に広く買っているに過ぎなく、質の方は二次的

になってくる。「多」に値打を置いて「質」の方を主に置かぬ。ところが美

しさを主体に推すと、そんな見方では近づくことが出来ぬ。縦に見るという

のはこの機微に触れることである。だから仮に幾度美しいものを買うとして

も、それは幾度も買うのではなく、「その一つ」を「一度きり」より買って

いない意味がある。ここで一度とは只の一回ではなく、「永遠の今」の中に

起こる一回である。そういう買い方でなくば、買い得たとは云えぬ。たとえ

金では買ったとしても。

 尤も民芸館の陳列をした経験からすると、同じような種類のものが幾個か

あると、陳列を一層美しくさせる場合が起こる。そういう為に、私とて数で

物を買う場合がないことはない。併しそういう時でも、質を充たすものでな

い限り、量だけでは買わぬ。只、数多く集めるとなると量が表に出て、質は

裏に廻されて了う。その結果は、つまらぬものまで集めるという悲喜劇に落

ちる。私はそういう蒐集に興味がないから、只「持ち過ぎる」と云われると、

そんな筈はないがと考えざるを得ぬ。数など考えて買ったことはないからで

ある。よく世間には「茶碗を百個集める」などと力んでいる蒐集家があるが、

私には愚かに見えてならぬ。数で集めて何になるのかと思う。百個に興味が

あって、一個なら興味がないのである。「この一個こそ」という持ち方が基

礎にならぬと、たとえ百個持っても、実は一物も持たないのと等しかろう。

私はそういう買い方、持ち方をしたくない。私が物を買うのは、いつも始め

ての想いで買うのである。一々が初恋なのだとでも云おうか。反復でもなく

重複でもないのである。新鮮なのであるから、一つ一つが始めての買物だと

いう意味がある。謂わば一つ一つを眼一ぱい心一ぱいで見ているので、それ

は昨日見たとか、幾度か見たとかいう見方ではない。即今より以外には見て

いないのである。初恋は一度ぎりのもので、幾度もあれば初恋ではないと云

うであろうが、本当の初恋ならそんな簡単な物指では決められない。

 こういう例を引いたらどうであろうか。念仏というものを考えると、多念

仏といって、念仏を数多く称える行がある。或は「常念仏」などとも云う。

昔から「常行三昧堂」というのがあって念仏行者が日々念仏する御堂である。

京都に百万遍という名刹があるが、念仏百万遍から来た名である。ともかく

度数多く称える念仏のことである。実際そういう多念仏に大なる功徳を感じ

た者は大勢いた。併し果たしてここに念仏の本義があろうか。これに対し一

念義ということを称え出した者もいて、本当の念仏なら一念に結晶すればよ

く、多念は要らぬと主張したが、これは念仏宗では邪義として退けられた。

尤もな話で、一度ぎりで念仏の必要がなくなるからである。品物でも本当に

よいものなら一個でもう沢山だというに等しい。他にいくら美しいものが現

れても心を動かさぬことになろう。

 併し求める心、慕う心は、そんなに局限されるものではない。限りない求

めであってこそ始めて本当の求めだとも云える。それ故念仏の例に帰ると

「念々の一念」という考えに高まるのは当然である。その意味は、一念が念

念に相続するので、単なる多念とは違う。後者は横の念仏であるが、前者は

これを縦の念仏と呼んでよい。もとよりこれは一回で終わる一念とも違う。

謂わば「不断の一念」なのである。それは一念を否定する多念でもなく多念

を否定する一念でもない。一念が日に新たに連続するのである。だから不断

の一念、一念の不断である。念々が新鮮な一念なのである。私の考えでは蒐

集も亦一物の不断、不断の一物でなければならぬ。つまり物々が新鮮な一物

として現れる時、不断の蒐集となるのである。これは多数な蒐集と混同され

てはならない。だから私は絶えず買いはするが、数沢山買っているのとは違

うと主張するのである。このことを分かって貰えないであろうか。

 お茶の方に「一期一会」(いちごいちえ)という言葉がある。始め禅宗の

言葉かと思ったが、どうも禅籍には見当たらぬ。併し茶人の言葉としては余

程、禅経験のある人が云い始めたことに違いない。或は紹鴎の言葉だとも云

う。「和敬静寂」の四字も有名だが、私はこの「一期一会」の方が一段と特

色ある言葉のように思われてならぬ。「一期」は一生涯のことで、「一会」

は一度出会うという意味であるが、茶を「一生一度の茶」として点てるとい

うように平たく言い直してもよい。尤もここにいう「一」は多に対する一と

か、二になる一とかいう意味の一ではない。ここが一寸むづかしい所である

が、繰返る一ではなく、一それ自からの一なのである。吉兵衛という妙好人

の言葉を借りると、「為始めで為納め」つまり「為直しのない」ことなので

ある。茶を点てるのは、そういう行いでなければならぬというのである。そ

うなると何度茶を点てようが、いつどこで茶を点てようが、まっさらな想い

の茶になる。反復などということは消えて了う。一度一度で完了している。

だから倦怠ということがない。前に出した言葉を用いると、茶を縦に点てる

ということになる。私は蒐集も亦そうでありたいと考えるのである。浜田は

先日も「柳が物を持つと、どんな骨董でも、立ち処に骨董でなくなり、まっ

さらなものになる。これが不思議だ」と云ってくれたが、実は不思議なので

はなく、「このもの」を「即今」に持つと、自然にそうなって了うのである。

誰にだってそうならねばならぬ筈である。だからどんな古い物でも、新しい

受取り方に接すれば、新しい物に甦ってくるのである。この受取り方を「即

今の受取り方」と呼んでもよい。物に新旧はあろうが、新旧のない受取り方

に接すれば、「いつも今」の品に成り変わるのである。

 ではどう受取れば、そうなるのか。多くの蒐集家が物を買うのを見ている

と、概念で判じて物を買っている場合がとても多い。自分の智慧を持ち出し

たり、世間の評判に依存したり、銘や箱書に便ったりして、いつも或物指で

計り、これで割り切れると安心して買うのである。この心理を心得ているか

ら、骨董商は雄弁に故事来歴を述べたり、何々図録に載っているなどと安心

させる。逆に買い手の方で知識が出来て巧者になると、物を買う時その知識

をいつも振回すことになる。このほか「古い」とか「珍しい」とか「疵がな

い」とか、色々の価値標準を持ち出して、それに適合すれば「是はよい」と

安心する。併し本当に美しい物は、そんな物指で割り切れるものではあるま

い。知ることが直ちに、見ることだと思うのはおかしい。見る前に知を働か

すと、見る眼が知に妨げられると気付かないのであろうか。

 私とて或知識を持っているから、必然に幾許かの智慧が潜在的にも働くだ

ろうが、そういう知識の闖入が目立つと、物を見る眼はどうしても濁ってく

る。一般の人は知識でもないと、物が正しく見えぬように考えるが、それは

反対なのだ。知識で計ると知識で計れる以内のことより見えないものだ。つ

まり色眼鏡のようなもので、その色以外の色は見届けるすべがない。知識を

持つことそれ自身は一向に差支えないが、それの奴隷になると、物は見えな

くなる。見て後に知る習慣をつけるのが肝心で、それが前後すると、美しさ

は匿されて了う。

 物を見るのは無手に限る。心を裸にするとよい。智慧の着物を着たり、七

つ道具を持ち出したりする必要はない。昔、道元禅師が支那から帰って来た

時、「空手にして郷に還る。ゆえに一毫も仏法なし」と云ったというが、大

した説法をしたものである。この「空手還郷」「無仏法」が、真に仏法への

体得であり、把握であるのだ。こちらが素裸だと、物の方でも匿すものがな

くなる。仏法でよく「捨てよ」というが、これのみが「得る」所以である。

つまり物を見る時、物と自分との間に介在物を置かないことである。ぢかに

見届けることが肝要なのだ。それでないと物の中には入りこめぬ。禅宗では、
 ジキゲ
「直下」という言葉をよく使うが、全く直下に見さえすればよい。智慧や評

判を持ち出すなら直下ではない。知識は物を離れて見るという働きに過ぎぬ。

 私は或名門の人で立派な品を沢山所持している人を知っているが、その人

は有名になっているものでなくば買わないのだ。だからその蒐集には佳い品

があるのは必定だが、併し自身で見届けての上ではない。寧ろ評判の高くな

いようなものは買えないのだ。買う眼がないのだ。だから買い方には創作は

ないし開拓もない。持ち方にも自主的なところがないせいか、物も輝いては

来ぬ。その人の蔵品が陳列してある室に入ったことがあるが、さむざむして

いた。見方に活き活きしたところがないので、物の方も生命を示そうとしな

い。物の良し悪しもさること乍ら、買い方、持ち方で、物は生きたり死んだ

りする。蒐集には自主的な自由な活きた眼が何よりほしい。ここで活きた眼

とは、ぢかに物そのものを見る眼力を指すのである。評判や市価や、そんな

ものに便らぬ自由さが欲しい。

 或はこう云おうか。顧みると私が物を求めるのは、そこに私の故郷を見出

しているからではないか。それを持つとは、郷土に居る想いなのである。人

間は実は誰にでも郷愁の念がある。徳を求めたり光を慕ったりするのは、本

来の性に戻りたい心の現れだとも云えよう。ノヴァリスは哲学を定義して

「懐郷の病い」だと云ったが、美しさを人間が飽かず求めるのは、人間本来

の故郷に帰りたい心に外なるまい。美しい品物を求めるのは、そこに心の故

郷があるからである。それと一緒に居たいのは、常に故郷に居たい希いの現

れである。「帰去来」(いざいなん)の三字は、人間の口から絶えることは

あるまい。それ故本来とか本具とあ本有とか自性とか本性とかいう字を仏教

はたえず使う。
               ゲ
 私はこの頃、箱の裏に品物への偈(短い詩句)を書きつけることを始めた。

永く別れていた品物にこう記した。「ヤスラフヤ、フルサトニ」と。自分の

ために現れたかと思うものに会って「彼レモマチ、吾レモマチ」と。先日所

望の行器(ほかい)が手に入った。丸々した豊かな形なのだ。私は自身にも
               マド    ホカイ
器にも云ってきかせるつもりで「円カナル、ナ外居セソ」と書きつけておい

た。私には器であって器でないのだ。器に私の古里を見ているのだ。或は器

が私の中に居場所を探しあてたといってもよい。私が求める時はどんな器に

も、こういう関係が見られるのだ。だから沢山持っていても、それは私に結

ばれて私と一つなのだ。私とは別々なものを色々持っているのではない。だ

からここでも数のことではなく一つに結ばれた世界の現れなのである。故郷

が幾つもあるというのではなく、求めるところに故郷が現れるのである。

 或はこう云ってもよいかも知れぬ。私は蒐集で何をしてきたのか。考える

とせっせと一生かかって殿堂を築きそれを壮厳しているのである。謂わば美

のお寺を建てているのである。なぜそんなことをするのか。穢土のままでは
                             スガタ
いたたまれぬからである。寺は詮ずるに彼岸の浄土が此岸に映る相なのであ

る。そこにはそれぞれに美しい物が集まってくる。品物はみな仏菩薩なので

ある。私が壇を設け棚をしつらえ、置くべき所に物を置いて、これと日夜を

送るのは、丁度真言の坊さん達が、曼荼羅を構えて、諸仏を念じるようなも
          ヤオヨロズ
のである。曼荼羅には八百万の仏がいるから、ここにも数を想うかも知れぬ

が、それは多仏なのではなく、一仏の無量な顕現で、丁度一つの太陽が十万

に光を放つが如きものである。或は万徳が互いを慕って一堂に相会する姿と

見てもよい。そこには美の浄土相が見えるのである。本来人間が住むべき幸

福な平和な場所なのである。私が物を求めたり集めたりするのは、この浄土

相を自分でも見、人にも見て貰う幸福を得たいためである。物を持つのは仰

ぐべき仏を迎えることで、日々の暮しはその仏を讃美し景仰し供養し礼拝す

ることなのである。こういう意味では私の暮しは日々仏を仰ぐ坊さんの暮し

に近く、念々称名する信徒の心に通じるとも云える。私には物(ぶつ)と仏

(ぶつ)、文字は変えるが、同じ意味合いがあるのである。その物が美しい

限りは。

 今まで物を讃えると、唯物主義と謗られたり、物を仰ぐと偶像だと貶され

たりしたが、併しそれは唯心主義の行き過ぎで、「心」と「物」とをそんな

に裂いて考えるのはおかしい。心は物の裏付けがあって益々確かな心となり、

物も心の裏付けがあって、愈々物たるのであって、これを厳しく二つに分け

て考えるのは自然だとは云えぬ。物の中にも心を見ぬのは、物を見る眼の衰

えを語るに過ぎない。唯物主義に陥ると、とかくそうなる。同じように心の

み認めて、物をさげすむのは心への見方の病いに由ろう。私は寧ろ心の具像

としての物を大切に見たい。物に心が現れぬようなら、弱い心、片よった心

の所為に過ぎぬ。それ故、「仏」というような心の言葉を、形のある「物」
                           イノチ
に即して見つめたい。物に仏の現れを見ないとか、仏に物の命を見ないとか

いうのはおかしい。美しい物は仏に活きていることの証拠ではないか。

 私の考えでは、美しい物とは、成仏した物という意味がある。成仏は救わ

れたもの、目覚めたものを意味し、道元禅師の言葉を借りれば、美しいもの

は「仏が行ぜられた図」だと云ってよい。成仏は又「作仏」とか「行仏」と

か云われる。仏が仏自からを作る行いが、物に現れる時美しい物と呼ばれる

のである。それで美しい物を見るということは、正覚の相、成仏の姿を仰ぐ

ことである。人間が美しい物を求めるのは、そういう姿を追う人間本来の求
  キザ
めに兆すのである。だから品物を購うのは、数を殖やすということが目的に

はならぬ。まして財産を殖やすような目当を持たぬ。蒐集家の多くが、物を

只財物と考え、それで利潤を見ようとするが如きは、物を唯物に落とす仕業

に過ぎぬ。物を愛し敬うのは心と離れぬ物を見るからでなくてはならぬ。財

として物を持つ人は真の持ち手とは云えぬ。寧ろ物への冒涜と云ってよい。

悲しい哉、そういう蒐集家がこの世には絶えぬ。

 物を集めるのは一つの慾とはいえるが、併し慾には己れを忘れぬ慾と、己

れを忘れたい慾とがあろう。美を愛し慕う心には己れを忘れたい希いがなけ

ればならぬ。若し蒐集が私慾に終われば、持ち方は暗くなり、穢くなり、従っ

て生活は陰性になる。私慾の影が濃いために起こる悲劇である。そういう人

人の持ち物は、どんなによくとも光は出ぬ。蒐集は物の受取り方、持ち方で、

その内容が左右される。否、持主その人が左右される。なぜ分かりきったこ

ういう真理に、多くの蒐集家は気付いてくれぬのであろうか。蒐集はおのづ

から自己を清め社会を浄めるものとならなければならぬ。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『世界』 昭和29年5月】
 (出典:私版本・柳宗悦集 第4巻『蒐集物語』春秋社 初版1974年)

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